「お前は誰だ?」
Aは自問自答した。
「他でもない、俺は俺だ」
その後Aは、自分自身を確認していた。
身体や顔を手で触り「この全てが俺だ」と納得した。
ところが、それでは終わらなかった。
Aは更に自問自答を続けたからだ。
「では、その確認した者は誰だ?」
「もちろん、それも俺自身だ」
「その俺自身とは、何者だ?周りから認識される名前や肩書全て取り払ってみろ。何が残るんだ?」
「もちろん俺という意識が残る」
「では、その意識はどうやって生じているんだ?」
「それは、脳のシナプスから反応パターンとして生じているのだろう」
「では、お前はシナプスなのか?」
「それは違う。シナプスの形成で生じた意識が俺だ。シナプスだけでは俺とはいえない」
「では、それを考えようと指示したのは誰だ?」
「もちろん、俺自身だ」
「ほぉ。ならば、俺自身と答えを出したのを指示したのは誰だ?」
「それも俺だ」
「ならば、俺という存在は、複数いるということなのか?」
「いや、瞬間的に生じた意識にいるということだ」
「それなら、電気信号がお前なのか?」
「それも違う。電気信号はキッカケに過ぎない」
「では、キッカケが生じなければ、お前も生じないということになるのか?」
「それは違う。キッカケが生じなくても、俺は存在するわけだから」
「そう考えが浮かんだのも、キッカケが生じたからだろう?」
「よく分からなくなってきた」
「なるほど。それが答えだな」
「そうだな。結局のところ”よく分からない存在”それが俺かもしれないな」
普段、当たり前過ぎてしまい考えることもない存在。
といっても、何よりも身近な存在である「自分自身」という存在。
意識というものが解明されるまで、自我や意識といった自分自身を証明するのは、簡単ではないといえるのかもしれない。
自分自身すらハッキリしないのに、他の人を理解するのは困難を極めるといいえるのかもしれない。
だからこそ、理解する努力が必要だという見方もできる。
「瞬間、瞬間」に変化する自分自身という意識。ハッキリと確認できないが故、確認できるもので自分自身を補おうとしているのだろうか。
繋がる経過の中でのみ存在できる者、それが自分自身なのだろうか?
「そんなことどうでもいい」と思う自分がいなければの話だが..
次は..55.ダイエット