──「あの刃物が、ゆっくりと私の方へと向かってきた。光を反射し、鋭い残像が瞼の裏に焼き付く。」
凛子（りんこ）は、ベッドに横たわったまま、呼吸を整えようとしたが、全身の筋肉は硬直し、動くことができなかった。恐怖が彼女を蝕み、まるで自分が自分でないような感覚に囚われていた。その瞬間、彼女の記憶が一瞬にして蘇った──そして、その記憶が現実とどこか重なり合った。
＊＊＊
凛子の人生は、ごく普通のもので、日々のルーティンに安心感を見出していた。毎朝、日が昇ると同時に起き、温かいコーヒーを飲みながら小説を読み、職場へと向かう。彼女は出版社で編集者として働いており、毎日多くの原稿に目を通していた。文章の鋭さや繊細さに触れる度に、凛子は満足感を感じていた。
しかし、ある日、彼女の前に一つの奇妙な原稿が届けられた。タイトルは「鋭い残像」──そのタイトルが無意識に彼女の興味を引き、その原稿を開く手が止まらなかった。
原稿は、一人の女性が何者かに追われ、終わりの見えない逃亡劇を繰り広げる物語だった。しかし、その内容が進むにつれて、物語と現実が次第に曖昧になり、主人公が経験している出来事が、凛子自身の記憶と不気味なほど一致していることに気づいた。
「これは……私のこと？」
文章に描かれた出来事は、彼女の過去のトラウマそのものであり、読み進めるほどに恐怖が増していった。何よりも不気味だったのは、その物語がまるで彼女の未来を予見しているかのようだったことだ。
そして、物語の終盤、主人公が狭い部屋に追い詰められ、刃物を手にした男にじわじわと追い詰められる描写が出てきた。その描写は、凛子に強烈な既視感を抱かせた。彼女はその瞬間、過去に何度も繰り返し見た夢を思い出した。それは、まさにそのシーンと寸分違わぬ光景だった。
「まさか……」
凛子は、これが単なる偶然ではないと確信した。そしてその晩、彼女は自分の部屋に閉じこもり、ドアに鍵をかけた。が、彼女の頭の中では、原稿の内容が何度も再生され、恐怖に駆られるままに眠りについた。
＊＊＊
夜が更けた頃、凛子は物音で目を覚ました。誰かが家の中にいる──凛子は静かに起き上がり、耳を澄ませた。心臓が喉元まで跳ね上がりそうなほど高鳴り、全身が汗で濡れていた。
ドアの向こうから聞こえる足音に凛子は息を呑んだ。原稿の最後のページが脳裏に焼き付いて離れない。刃物の輝き、逃げ場のない部屋、そして男の冷酷な視線──すべてが恐ろしく現実味を帯びて感じられた。
彼女がベッドサイドに手を伸ばしたその瞬間、ドアが開かれた。視線の先には、まさにあの原稿に描かれた刃物が光を放っていた。
「どうして、こんなことに……」
凛子は自らの運命に抗う力もなく、ただその光景を見つめた。すべてが、まるで予定調和のように進行している。しかし、その時、ふと彼女の頭にある考えが閃いた。
「もし、これは私の人生の物語ではなく、誰かが書いたものだとしたら？」
その思いが彼女の中で膨れ上がり、自らの運命が、単なる他者の創造によるものである可能性に気づいた瞬間、凛子は立ち上がった。そして、鋭い残像を追いかけるように、その男に向かって一歩を踏み出した。
「これが私の物語なら、私が結末を決める。」
彼女はその瞬間、原稿の結末を超えて、新たな未来を切り開いた。しかし、その未来が、果たしてどのような形になるかは誰にも分からなかった。凛子は自らの手で物語の最後の一行を記すことを決意したが、その一行が何を書くべきかは、彼女自身もまだ知らない。
そして、彼女は読者に問いかける。
「私たちの人生は、誰が書いているのだろう？」
次は..93.画面の中の視線
